
(余呉湖/2018)
<現在の「写真」とは?>
まず、現在「写真」とされているものについて考えてみたい。
個人的には「写真」というのはこれまで慣れ親しんできた「紙にプリントしたもの」という認識を持っていた。
しかし、周りを見るとデジタルカメラで撮影されたデジタル画像そのものを「写真」と認識している人は非常に多いようである。
「デジタル画像」は何を以って「写真」と認識されるようになったのだろうか。
フィルムが主流だった2000年ごろまでは、フィルムに像を記録した後に何かしらの物質(主に紙)に転写を行うことによって
写っているものを皆が認識・共有することができ、それが「写真」として存在していた。
この転写を行わない限り、撮影者周辺の者しか元画像は認識できず、いわゆる「写真」として広く受け入れられることは難しかった。
撮影者だけでなく皆が画像を認識・共有できること。これは元画像が「写真」として認知されるために必要な条件だったのである。
現在の状況について改めて考える。
なぜ非物質的なデジタル画像そのものまでが「写真」と認識されるようになったのか。
その要因のひとつはフィルムカメラによる元画像の可視化と比べ、デジタルカメラによる元画像の可視化の方が圧倒的に容易だったからである。
いわゆるプリントラボ(写真のプリント屋さん)の環境が整っている場所は限られるが、デジタル画像を見るためのPCがある環境は各家庭に
1台あってもおかしくないレベルで整っており、何ならスマートフォンでも十分に綺麗な画像が確認できる。
また、データであることにより瞬時に画像の転送・拡散が可能となり、もはや本来の特性のひとつである「複製可能である」という概念を軽く
飛び越えてしまっているほど同時多発的に元画像の共有が可能になった。
そう考えると、現在では必ずしも(たくさんの人に見せるために)紙に転写する必要が無くなったのは理解できる。
「写真」が物質として存在していた理由の一つはそこにあり、そうなれば「写真」が物質であるべきだという概念も少し変わってこないだろうか。もちろん保存性・永続性のことを考えると物質化はやはり必要に思えるが、「写真とは何か」という事とは少しベクトルが事なる気がする。
「写真」が「写真」たり得る必要条件の一つ。
それは 撮影されたものが広く一般に向けて可視化され、認識・共有されること。
こう考えると普段何気なく写真と呼んでいるものは何を以って「写真」と成っているのか、という疑問が少し晴れてくる。